〈蘇州夜曲〉は、服部良一が1940(昭和15)年に発表した歌謡曲で、自分も大好きな一曲。
戦前の作品でありながら、いまもさまざまなアーティストにカバーされ続けている。
高齢者福祉施設での訪問演奏ではたいへん歓迎されるし、若い世代でも、この曲を知っている人は決して少なくない印象だ。
映画『支那の夜』(1940)で、李香蘭が歌う場面の美しさも忘れがたい。
服部良一は「和製ポップスの父」として知られているが、もともとジャズ・ポップスだけの人ではない。
大阪のオーケストラでフルート奏者を務め、指揮者エマニュエル・メッテルのもと、リムスキー=コルサコフの教材を使って和声法やオーケストレーションを学ぶなど、本格的なクラシックの訓練を受けている。
そのクラシックの素養は、〈蘇州夜曲〉のような声楽的な歌謡曲に表れていると思う。
またこのような映画音楽では、オーケストレーションの技術も垣間見ることができる。
そして、サクソフォン奏者として一番アツいポイントは服部良一の仕事始めは、じつはサクソフォン・プレイヤーだったということ。
大阪のうなぎ屋チェーン「出雲屋」のプロモーションとして「出雲屋少年音楽隊」が結成され、
1923〜1925年ごろ、服部はそのサキソフォン・バンドのリーダーとして活躍している。
出雲屋少年音楽隊について、Thunderさんも記事にされている:
元祖サックス・バンド
http://thunder-sax.cocolog-nifty.com/diary/2013/11/post-cc23.html
いまで言えば、企業タイアップの宣伝バンドでありつつ、
日本のサクソフォン史にとってはかなり早い段階のラージ・アンサンブルでもある。
服部良一はそのど真ん中でサクソフォンを吹いていた。
日中戦争中、服部はサクソフォン奏者として「中支慰問団」に参加している。
志願したものの「作曲家枠」がなく、サクソフォン奏者としての参加になった、というエピソードが残っている。
上海をはじめ各地を移動する中で、現地の風景や空気に触れ、その経験が〈蘇州夜曲〉の背景となった。
自伝のなかで服部は、杭州の西湖での出来事を回想している──
杭州も水の都である。二千余年の古い歴史をもつ古都で、史蹟が多い。詩聖、白楽天が愛した広大な西湖では、歌手の松平晃を誘ってボートを漕ぎ出し、その上でぼくは感興のわき出るままにソプラノ・サックスを吹いた。その調べが、たそがれの静かな湖面を流れてこだまし、岸のほうからヤンヤの拍手をうけた。
このエピソードからも、服部にとってサクソフォンが、単なる仕事道具ではなく、
身体感覚と直結した「自分の声」に近い存在だったことが伝わってくる。

戦前の歌謡曲として、映画音楽として、そして「サックス吹きだった作曲家」の作品として、
〈蘇州夜曲〉には、服部良一のキャリアと感性が濃縮されているように思う。
だからこそ、自分のような奏者がこの曲を演奏することには、ただの「懐メロ演奏」を超えたミッションがあると考えている。